渋谷迷宮

2・26事件慰霊碑

 1959年の1月のある日、その日も雪が降り続いた。いまの公園通りの坂道を登り、高い土手の上に建つ小さな白塗りの山手教会を過ぎ、路地伝いに神南小学校(そのころは大和田名ではなかったか)へと歩いた。校舎の二階から外を見渡すと、目の下にレンガ塀が長く続いていた。現在の渋谷区役所の南端に位置するが、レンガ塀の上もその内側も雪が積っていた。そこは、かつての陸軍代々木練兵場の跡だが、そのころはまだ米軍から返還されていなかったかもしれない。レンガ塀周辺の一角だけが、米軍の宿舎もなく広々としていた。ところどころ土がむき出しになり、じつに荒涼とした風景だった。そのとき目撃したレンガ塀の内側が、陸軍の処刑場跡だと知ったのは、二年後のことである。
 1931年(昭和11)、2月26日、「昭和維新」を叫んで青年将校らがクーデターを計画し、雪降り積もる日に決起した。ちょうど、東北農村の凶作によって多くの餓死者を出し、その結果、少女たちが身売りに出されるという状況にあった。クーデターの本質は、陸軍内部の「権力闘争」ともいえるが、内実はともかく、財閥だけが富みを得ていることに憤りを抱き、国家改造を目的とした青年たちの叛乱であった。首相官邸、各閣僚私邸、警視庁、朝日新聞社が襲撃され、大臣の数名が殺害された。しかし、叛乱軍は瞬く間に鎮圧され、彼らの目的は挫折した。当然、彼らが奉じた昭和天皇にも彼らの意思は伝わらなかった。その後、3月から軍法会議が開かれ、7月5日には栗原安秀、安藤輝三、安田優たち青年将校17名に死刑が言い渡された。そして、1週間後の12日に、陸軍刑務所内の処刑場で15名の死刑が執行された。
イメージ慰霊碑 翌年の8月19日、同所で、磯部浅一、村中孝次と彼ら青年将校の思想的指導者と目された北一輝や西田税を含む4名が処刑された。いずれも、処刑は銃殺刑であった。その処刑場が、神南小学校から見えたレンガ塀の内側である。処刑場跡を含む代々木練兵場は敗戦後、米軍に撤収され、米軍宿舎「ワシントンハイツ」に衣替えしたが、処刑場跡はそのままになっていたのだろうか。というのは、50年代に写したと思われる航空写真に処刑場の土もりと窪みらしきものが写っていたからである。
 1964年の東京オリンピックの時に、米軍から返還された一帯には、区役所や公会堂が建った。このときに長いレンガ塀と処刑場跡が解体されたのだろう。そして、1965年、2・26事件から30年目に、渋谷税務署わきに残っていたレンガ塀の場所に遺族や関係者の手によって慰霊碑が建てられた。磯部浅一は、遺書のなかで昭和天皇に裏切られた想いを連綿と綴ったが、昭和天皇はその言葉をどのように受け止めたのだろう。
  慰霊碑の除幕式が開かれる数日前に青年将校の生き残りのひとりである池田俊彦さんを銀座通りの事務所に訪ねたことがある。池田さんは機銃を抱えて首相官邸を襲撃したとき、まだ20代の少尉であった。小さな社長室には、将校時代の写真が架けられていた。「あのときは純粋に革命を起こそうと思っていました。いまも、革命の精神を忘れたわけではありません。仕事として、エネルギー革命にも関わっていますしね!」といって、豪快に笑った。(2005/2/25)

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