渋谷迷宮

三田用水1_一二郎池

イメージ東大裏の三田用水遺構 5月のある日、深夜の「タモリ倶楽部」で三田用水が取り上げられていた。途中から見だしたのだが、「万力のある家」近くの風景が突然飛び込んできた。いまから20年ほど前、地図を手にした老人が通りかかり、「このあたりに三田用水が流れていたはずなんだが」と話しはじめた。「恵比寿のビール工場へ向かって流れていたと思う」ということだったが、まったく知らずに過ごしてきた。旧山手通りと分岐する環状6号線は東京オリンピックのときにつくられた。6号線周辺の低地にはオリンピックまで住宅が密集していたが、代々木競技場から駒沢競技場にいたる山手通りと246号線(玉川通り)を結ぶ道路整備にともないほとんどの民家は立ち退きとなった。それ以前、玉電の走る246号の北側は通称「窪ったま」と称され、民家の回りには田畑がひろがっていた。そんな話をして、この辺りに三田用水は流れていなかったのでは、と答えたのだった。
 「タモリ倶楽部」で三田用水が、246号線を上りきったいちばんの高台「大坂上」のところを恵比寿方面へと流れていたことをはじめて知った。そして、いつも目にしていた駒場の東大裏にある不思議なコンクリート遺構が三田用水跡だとわかってさらにびっくり。そこであらためて未知の三田用水周辺を辿ってみることにした。
イメージ東大構内の一二郎池  三田用水が流れていた東大裏門のコンクリート遺構の南側の崖下には長細い大きな池がある。東大構内にあるところから「一二郎池」の名が付されている。本郷の「三四郎池」との語呂合わせだろう。つい最近まではうっそうと灌木が茂っていてジャングル状態だった。戦後の50年代までは子どもたちのザリガニとりや魚釣りの絶好の遊び場となっていた。かつて「一二郎池」の名などはなく、子どもたちは勝手に「東大池」だとか「底なし沼」だとか呼んでいた。自然湧水に関する本には、わずかに湧水があったと記されているが、すぐ真上にある三田用水からも水を引いていたのではないかと思う。そして、たまった池の水は、さらに下の田んぼに流れ込んでいたものと思われる。駒場野公園の湧水や東大西口の湧水も下の田んぼに流れ込んでいたが、それらが駒場バラ園付近で合流し、そのあと「窪ったま」の田畑の真ん中を抜け246号の土手をくぐり、その先の目黒川に流れ込んでいた。
イメージ暗渠化された三田用水跡 さて、三田用水は昭和の初め頃、1930年代にはすでに多くが暗渠化されていたというが、現在その道筋を辿るのはそう難しくはない。東大裏のコンクリート遺構が途切れたあたりから山手通りと併行して細い裏道があり、これが用水の名残りだと思える。セントラル病院の裏から井の頭線のトンネルの上を通過して、246号線方向へと続く。途中、「タモリ倶楽部」で紹介されたクリーニング屋のある小さな四つ角がある。東の道玄坂から別れた淡島通り(滝沢道)を上りきった地点である。西へ下ると現在の広い山手通りにぶつかるが、オリンピックまでは崖下の「窪ったま」への細い下り坂があった。道は、先の駒場野公園からの小川を越え、松見坂の登り口へと続いた。なお、戦国期にこのあたりの松の大木にのぼって周囲を見張っていた道玄太郎という盗賊がいたという。これが、松見坂の由来ということになるが、じつは、道玄坂の由来もそこからなので、本来の道玄坂は神泉から上り下りを繰り返すこの滝沢道を指すのではないかという説もある。
 クリーニング屋を過ぎて路地のような狭い道を進むと、現在の広い淡島通りに出る。通りを横切って100メートルで246号線だ。手前にホテルがあるが、70年代のはじめまでは、三田用水の道を挟んで5〜6軒のラブホテルや連れ込み旅館が存在した。道玄坂上の円山町から4〜5分しか離れていないので、静かな奥座敷的感覚があったのかもしれない。
イメージ三田用水は旧淡島道と交叉 なお、三田用水が流れていた最高地点に玉電の「大坂上」停留所があった。大山道の48坂のなかでいちばん勾配が大きかったので「大坂」と言われたという。停留所から三軒茶屋方向の真っ正面に富士山が望まれた。そして、大山街道時代の急坂の面影は、246号の北側に旧大坂としていまも残っている。(ちなみに、わが祖先は、玉電開通と同時に上野車坂から当地に移った。大坂下の大橋の村が玉電開通によって将来賑わうのではないかと予想し和菓子屋を開業、そのあと魚屋、寿司屋へと転業)

〈渋谷迷宮〉一覧に戻る

トップページに戻る