渋谷迷宮

恋文横町

60年代の恋文横町(『一億人の昭和史』より) 1950年に始まった朝鮮戦争は、ようやく1953年に休戦となり、多くの米兵は日本の基地から本国へと帰って行った。彼ら米兵との別れを惜しんだ日本女性は、英文のラブレターを代書屋に頼んだ。その「恋文引き受けます」のはり紙を出した代書屋がいまの109の裏にあった。そして、そこをモデルに、さきごろ他界した丹羽文雄が「恋文」という小説を書いたのは、ちょうど朝鮮戦争が休戦に入った年である。小説「恋文」は、予想外に読者の反響をよんで、その一帯が「恋文横町」と呼ばれるようになった。田中絹代によって映画化されたのはさらに数年後である。 
イメージ恋文横町看板   しかし、50年以上を経過した現在、恋文横町の所在ははっきりしない。作家の片岡義男氏も「百軒店と同じ位置と勘違いしていた」と訂正していたように、サイトや雑誌での案内を含めて間違いが少なくない。じっさいに百軒店の入口にも代書屋があったから混同しても不思議ではない。いや、現在の109の先きの文化村通りに「恋文横町ここにありき」と役所が表示しているくらいだから、実在の場所が確定不能でもやむを得まい。
  より詳しくいえば、「恋文」が発表される以前から、焼跡マーケットは存在していた。109から道玄坂の北側一帯にかけては、B29の猛爆で完全な焼け野原となった。そして、敗戦後、道玄坂の登り口の右手、現在の道玄坂センタービルやプライムのあたりに雨風をしのぐていどの即席のマーケットができた。
イメージ恋文横町入 古着屋はもちろんだが、和服を含む数々の衣料品店、学生服専門店、靴屋、帽子屋、めがね屋、鞄屋、徽章屋、時計屋、貴金属店、はんこ屋、金具屋、そして雑貨屋、古道具屋、等々の生活用品を扱う店が、迷路のごとく縦横に延びた細い路地の周りに並んだ。どこも2坪、3坪の小さな店だ。上野のアメ横の路地を連想してもらうと理解し易いが、子どもたちは裸電球やアセチレンランプが灯るころまで、路地から路地へと駆け巡り、鬼ごっこやかくれんぼを楽しんだ。
  それらの路地のいちばん奥の方に飲み屋や代書屋があったのだろう。食料品を除けば、すべての生活用品がそこで揃ったから、路地はいつも夜遅くまで賑わっていた。にもかかわらず、この数十軒がひしめくマーケットの存在は、残念ながら公けの区史にも見当たらない。もしかすると、それは、マーケットを形成していたのが「日本人」ではなかったからだろうか。
イメージ旧マーケット地 「月賦の緑屋」がマーケットの場所に6階建ての大きなビルを建てたのは50年代の終りだ。1956年の『経済白書』が「もはや戦後ではない」と高らかに宣言したが、都内のどこもかしこも「戦後」のままだった。しかし、朝鮮特需以降の多少の経済成長により、庶民はアメリカ風の消費文化に憧れていた。「月賦の緑屋」の渋谷進出は、その象徴である。そして、このとき、「恋文横町」と呼ばれたマーケットは、奥の飲み屋街だけをを残して消え去った。マーケットにあった何軒かがハチ公広場の地下に新しくできた「渋谷地下街」へと移転したとも噂された。
イメージ恋文横町の路地 恋文横町から緑屋への変転には、敗戦日本の現実、いや、在日朝鮮人や中国人の現実が横たわっていると思われるのだが、どうなのだろう。交差点の角地に109が建ったのが1979年である。サイトや雑誌には、しばしば「70年代後半まで恋文横町があった」と書かれたりするが、60年代半ばには残っていた数軒の飲み屋も消えたはずだ。そのあと緑屋の裏に路地の一筋が残っただけだ。
 「恋文横町」という美しい名称は後世まで語り継がれるだろう、との文章を目にするとき、その背後に見え隠れする焼け野原や在日アジア人や朝鮮戦争の実態を想起せざるをえない。<2005/6/4>

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