渋谷迷宮

ハチ公前広場

 朝鮮戦争が始まったのは、1950年のことだ。戦争が激しくなるにつれ、山手通りを連結式の大型トレーラーに積まれた米軍戦車が朝霞キャンプと横須賀を往復していた。横須賀に向かうには、南平台西側の旧山手通りを抜けたほうが近道なのに、大きく迂回して中目黒に出たのは、旧山手通りが外国大使館が並ぶ高級住宅街だったからかもしれない。横須賀に向かうときは白い星マークをつけた真新しい戦車であったが、朝霞へ帰るときは、砲塔もキャタピラもない、黒焦げの傷だらけ状態であった。
イメージ中核自衛隊の計画図1  ちょうどその頃、日本共産党が武力革命の方針を打ち出していた。中核自衛隊とか山村工作隊といった、革命のための行動組織が生まれたという。敗戦からわずか五、六年である。まだ焼け跡があちこちに残り、生活は貧しかった。だれもが二度と戦争をしたくないと思っていた。映画「きけわだつみの声」をみた子どもたちが、いつしか自由で平等な労働者国家を夢想していた。 
  ハチ公前広場で「朝鮮戦争反対」「日本の再軍備反対」の抗議行動が起こったのは、1952年2月だ。東大の中核自衛隊のリーダーたちがハチ公の銅像の上にたち、スローガンを叫んだという。ハチ公の周りにはたちまち二千人もの群集があつまり、東横百貨店別館の玉電ビルの三階からは、「再軍備反対」の長い垂れ幕が下ろされた。結局は、三千にふくれあがったデモ隊と群集は、かけつけた警察予備隊によって解散させられたが、当初は、火炎瓶によって騒乱状態が計画されていたらしい。
中核自衛隊の計画図2 この「渋谷事件」は、三ヵ月後の「メーデー事件」のように強く記憶されていないが、周辺の子どもたちにも「革命は近づけリ」を感じさせた。ある日、子どもたちは、「火炎瓶で町が燃えている」と聞いて、道玄坂をかけおりた。それは、井の頭線ガード横のバラック街のたんなるボヤでしかなかったが、「渋谷事件」は、子ども心に予期せぬ興奮をもたらしただろうか。60年代に入って、ハチ公の台座には、ベトナム反戦をはじめとして、左右の政治的なビラがベタベタと何重にも貼られていたが、70年をすぎてハチ公は急に清潔になった。が、いまも、米軍によるイラク戦争に反対する若者たちがハチ公周辺に集まっているようである。 (図はいずれも『左翼学生運動』1954年刊より)<2004/7/22>

〈渋谷迷宮〉一覧に戻る

トップページに戻る