渋谷迷宮

大東塾十四烈士

 代々木公園の西よりの一角、深い木立に囲まれて「大東塾十四烈士」の碑がたっている。敗戦直後の八月二十五日、「敗戦の責任」を受け止めた右翼結社である大東塾の塾長・影山正治の父親である影山庄平と塾生十三名の若者らが割腹自殺をとげた場所である。ある若者は、遺書の最後に「天皇陛下万歳、日本帝国万歳」と記したあと、「お母さん万歳、お母さん万歳」と続けた。「かれらが死によってつらぬこうとした日本国家批判の方法は、死によってはじめて責任ある国家批判が可能であるという見解と、それほど違わないといえる。そうしなければ自己の思想もゴマカシであるという認識が極限まで押し進められている。」(橋川文三『歴史と体験』より)
イメージ大東塾十四烈士の碑 1952年11月、現天皇が皇太子のとき立太子礼の行事があった。青山通りを皇太子の乗った馬車が通るというので、周辺の区立の小学生が一斉動員された。日の丸の小旗を持たされた小学生らは、神宮外苑に向かって青山通りを進んだ。途中、通りに面した青山学院の片隅に焼け残ったぼろぼろの長屋風二階建てがあった。入り口の半分壊れかけたガラス戸に「大東塾」の張り紙があった。子どもたちに、それはまるでそろばん塾か習字塾かのように見えた。小学生らは、空襲ですっかり破壊されたビルの二階や三階に上がって、かくれんぼに興じながら皇太子がやって来るのを待った。敗戦から七年が過ぎていたが、青山通りのあちこちにはまだ焼け跡が残っていた。
 大東塾が青山のベルコモンズのある交差点に近いビルに転居したのは、東京オリンピックのための青山通り拡張工事のときだったように記憶する。1964年ごろ、新しいビルにおさまった大東塾を訪ねたことがあった。影山塾長は、奥多摩に出かけていたようで、長谷川幸男塾監と鈴木正男編集長が応対した。戦後、大東塾が刊行した『十四烈士自刃記録』、そして、戦前の影山正治の『天忠組への道』、あるいは『ひとつの戦史』等々に接したことを伝えると二人の表情は和らいだ。そのあと、二人は交互に、敗戦後の代々木練兵場での自刃の様子を語った。出征していた長谷川が復員し、帰塾したのは自刃当日の夜半であったという。そして、鈴木が復員したのが翌日だったのだそうだ。影山塾長が中国から復員したのは翌年である。「十四烈士の真実を私たちが語り継がないといけませんから」と長谷川塾監が低くつぶやいた。
 帰りしな、長谷川塾監は、「お近くにお住まいのようですから、こんどはお茶でも飲みにいらっしゃい」と笑った。鈴木編集長は、出版されたばかりの影山の著書『民族派の文学運動』と数冊の雑誌を「どうぞお持ちください」と差し出した。そのあと、生真面目な面持ちで、「70年安保のことを、あなた方はどのように考えていますか?」といった。
 影山正治塾長が青梅の大東塾農場内で自死したのは、1979年である。塾長をついだ長谷川が病没し、そして、一昨年、塾長格の鈴木正男が同じ農場内で自死した。かつての代々木練兵場は、敗戦後、米軍将校の宿舎「ワシントウハイツ」となったが、「建碑に当たっては米軍進駐前に採取した血染めの砂が碑の下に収められている」と碑の説明にある。(2004/8/5)

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