渋谷迷宮

安藤組

イメージ映画「男の顔は履歴書」 敗戦から5〜6年もすると、渋谷駅周辺の焼跡の風景は消えていた。井の頭線のガード付近には、まだ闇市の名残りが見うけられたが、魚屋や乾物屋をはじめとする活気ある食料品店が並んだ。だが、目の前のハチ公の銅像のまわりにはうさん臭い一群が常にたむろしていた。
 首からカメラをさげた男たちは、遠くから映画見物や買い物にやってきた人たちに向って、「ハチ公をバックに記念写真をいかがですか?」と言い寄った。まだ一般の人がカメラを持てる時代ではない。「後日、写真をご自宅にお送りしますから」といって、ハチ公と並んだショットを撮った。ところが、請求金額が常識をはずれていた。現在の金額に換算すると五千円から一万円である。驚愕し、「いや、けっこうです。いりませんから」と拒否すると、にこにこしていた男たちの態度は一変した。「冗談じゃねえ、撮って欲しいというから撮ってやったんだ。カメラ代やフィルム代を弁償しろよ!」と脅迫まがいに出た。仕方なく支払うしかない。占領下の警察は、見て見ぬ振りだったからである。ところが、50年代も半ばになると、そうした光景が見られなくなった。安藤組が渋谷の街を完全支配したからだろうか。
イメージ映画「男の顔は履歴書」 安藤昇の名は、周辺の小、中学生には、「ヒーロー」の響きをともなって伝えられた。たしかに安藤昇は、愚連隊あがりであり、「ヤクザ」の親分であっただろうが、子どもたちにとっては、恐怖の街から解放してくれた「恩人」という思いがあったのかもしれない。じっさい、子どもがひとりで渋谷の町中を自由に闊歩できるようになったのである。安藤組の実態を知らなかったが、「安藤昇ってかっこいいよな! 特攻帰りだってね、 インテリヤクザだってさ!」とまことしやかに伝播した。安藤組は、安藤をはじめとして法政、立教、国学院といった都内の大学生らによって組織されていたとのこと。
イメージ映画「懲役十八年」 安藤昇が、東洋郵船社長・横井英樹襲撃事件で八年の服役を終えて出獄したのは、1964年である。間もなくして安藤組は解散。しばらくして、映画俳優として再出発する。松竹で安藤組を題材とした映画「血と掟」のあと、敗戦後の闇市を舞台とする企画が持ち上がった。東映の加藤泰監督が招請されたが、安藤は、シナリオを読んで出演を拒否したという。内容は、敗戦直後の新橋戦争や渋谷戦争をモデルとした在日朝鮮人や中国人と日本人が抗争するヤクザ映画だ。敗戦直後、安藤は似たような抗争に巻き込まれたことがあったようだった。加藤泰は、安藤邸に乗り込み、面と向って「安藤さん、あなたはこのまえまで安藤組の親分っだったかもしれません! だが、あなたもこんどの戦争に一度は命を預けたはずです。私たち戦争を体験した者は、もう一度、あの戦争を振り返る必要があると思いませんか!」と詰め寄った。予科練出身の安藤は、特攻「伏龍隊」で厳しい訓練を重ねた体験があった。加藤もまた、中国戦線で現地徴集された経験をもつ。安藤は、加藤の気迫に感じ入り、即座に出演を承諾したという。
イメージ映画「男の顔は履歴書」  その映画「男の顔は履歴書」は、66年に上映された。現在、海外で高い評価を得ていると聞くが、封切り当時マスコミを含めてすべての映画評は、「ヤクザ映画」という理由で黙殺した。しかし、安藤の断念を抱え込んだ町医者の姿は、戦中派の苦渋と憤怒をみごとに表現していた。加藤は、安藤主演で「阿片台地」「懲役十八年」をも撮った。これら戦中三部作は、加藤によって、「戦前に生まれ、戦中に青年期を迎え、戦後に生き残ることの出来た僕らのような者の、しておかねばならぬ仕事の一端を、このような連作で果すことが出来たのは、幸せであったと言わねばならない。」と書き記された。(『加藤泰の映画世界』北冬書房刊より)

〈渋谷迷宮〉一覧に戻る

トップページに戻る