観光地盛衰記

岩窟ホテル

イメージ岩窟ホテル
(1934年発行絵葉書より)

イメージ岩窟ホテル(現在)
 かつて、埼玉県東松山市郊外の松山城跡の麓には「岩窟ホテル」があった。いや、いまもまがりなりにも現存するから「ある」というべきだろう。明治から大正にかけて、近くの農民・高橋峯吉が城跡の本丸下の懸崖をノミとツルハシだけでくりぬき、中央アジアで見かけるような宮殿風をつくった。内部の完成にはいたらなかったが、「昭和」の初めにはそのデザインが珍しがられ、多くの観光客がつめかけた。それは、隣接して「吉見百穴」があったからでもある。
 吉見百穴は、明治中期の発掘調査によって二百以上の横穴群が発見された。考古学が未発達の時代のため、コルボックル人住居跡という珍説まで登場し、学界で大論争に発展したが、結局は古墳時代後期の墳墓と決着。戦後しばらくまで、百穴群への出入りは自由だったのだが、墳墓内の天然記念物「ヒカリゴケ」を保護するため、いまは鉄柵が張り巡らされ、入ることができない。百穴は、昔ほどではないにしても、観光名所として整備され、マイカーで訪れる人も少なくはない。それにひきかえ、岩窟ホテルは、いつのころからか閉ざされたままだ。
イメージ吉見百穴

イメージ軍需工場入口跡
 岩窟ホテルには40年代、50年代、60年代と三度ほど訪ねたことがある。玄関を入ると中は真っ暗で迷路のようであった。また二階、三階への石段は手すりもなく、危なっかしい。が、バルコニーからは、眼前に百穴や越辺川の風景が見渡せ、ちょっとした興奮を体験。それよりも見落としてならないのは、岩窟ホテルや百穴に残された縦横にはしる巨大な洞穴である。観光用として整備されてない50年代までは、ローソクや懐中電灯を頼りに、かなりの奥まで進むことが可能であった。
 1945年、太田にある中島飛行機の部品工場として、この地が決定され、急遽掘削が開始されたようだ。敗戦間際の6月か7月のちょうど昼時だった。突如、空襲警報が鳴り渡った。近くの人々は、岩窟ホテル手前の建設中の地下工場へと走った。数分後、B29の大編隊が太田・高崎方面へ飛び去るのを、地下水が流れ落ちる壕の入り口から見上げていた。裸電球のついた地下壕の奥に向かってレールが敷かれ、トロッコの何台もがつながっていた。そのとき、強制連行の朝鮮人が労働者としてどのくらいの数が従事させられていたかは、資料不足で不明である。結局、百穴や岩窟ホテルの一部を削り取った地下軍需工場は、完成することはなかった。
 いまも、岩窟ホテルの手前に地下壕入り口は認められるが、岩壁の崩落が予想されるため近づけない。しかし、百穴地区の地下壕跡は、見学が可能である。

(2004年7月1日)

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