観光地盛衰記

忠治地蔵尊

イメージ忠治処刑場跡 上州の侠客であった国定忠治が、吾妻の「大戸の関所」に近い河原で処刑されたのは、ペリーが浦賀にやってくる少し前の嘉永三年十二月二十一日であった。忠治は十代のころから賭場に出入りしていたらしく、20歳をすぎるといっぱしの侠客として赤城山麓に名をはせた。27歳のとき子分の復讐のため、二十数人で大戸の関所を破って信州へと向った。関所破りの罪で捕縛されたのは、四十歳のときであったから、十三年間も見逃されていたことになる。萩原進の『あがつま史帖』には、ヤクザの大親分ともなれば、多くは自己防衛のため二足のわらじをはいたが、忠治は最後まで二足のわらじを嫌い、権力に反抗し続けたからではないか、とある。
イメージ 忠治慰霊碑入口 四方を竹矢来で囲んだ処刑場には、槍や刀を手にした300人もの役人が警戒にあたった。それは、忠治奪還を恐れた権力側の恐怖心を意味するのだろう。周囲には1500人もの農民が集まった。はるか遠方からやってきた者もいたようだ。天保の飢饉のとき、忠治が農民の救済に手を貸したことがあったからかもしれない。忠治は博打うちとはいえ、ある種の「英雄」であった。その「英雄」の最後を見とどけたいということだろう。目隠しを拒否した中風病みの忠治は、十五槍刺されて絶命。その後、数日間の晒し首となった。
イメージ忠治地蔵尊 現在の忠治地蔵が立つ場所が、磔柱の十字架があったところである。明治維新を過ぎると、忠治はますます「英雄」扱いとなった。処刑後すぐに地蔵尊がまつられたが、線香を手向ければ、中風が治るとか、勝負事で勝てるとか、全国に噂が広まっていった。「昭和」に入ると、東海林太郎の「名月赤城山」が大ヒットし、伊藤大輔のプロレタリア映画「忠治旅日記」も人気を博した。戦後になってからも繰り返し映画が製作され、「赤城の山も今宵かぎり、可愛い子分のおめえたちと」の名セリフは、大劇団から田舎芝居にいたるまで演じられ、民衆の涙を誘った。
イメージ すぐ隣りの土産物屋 その結果、忠治地蔵尊には、観光バスが列をつくった。70年代の終わり頃までは土産物屋も繁昌していた。しかし、80年代に入ると、地蔵尊まえの信州街道を走る自家用車は以前の数十倍に増えたが、土産物屋の前に駐車する車はほとんどない。観光バスさえ猛スピードで通過する始末で、地蔵尊の線香も絶えたままだ。土産物屋の中には名もない演歌歌手の色紙が何枚も飾られている。旅回わりの歌手にとっては、ヒット祈願のための欠かせない場所なのかもしれない。
イメージ農民が集まった場所 大戸宿跡には、旅館を営んでいたと思われる建物がいくつか認められる。かつては、忠治地蔵尊をお参りした人々が宿泊したのだろうが、いまはどの家も休業中のようである。

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