知られざる宿場

蔦木宿

  北の八ヶ岳と南の南アルプスに挟まれた深い谷あいに、甲府から諏訪へと甲州街道が北西に延びているが、長野県(信濃)に入って最初の宿場が蔦木宿だった。じつは、江戸時代になって宿駅制度が整備されたあと、正確には「甲州道中」と呼ばれたらしい。
イメージ甲州道中・蔦木宿 いまは国道20号線といった方がわかりやすい。ともかく、大変な交通量なのでゆったりした宿場見物など不可能に近い。ただ、国道に面して格子造りの民家が散見されるので、そこが宿場であったことは一目瞭然である。500メートルに及ぶ町並みには、宿場時代に本陣や問屋のほかに、荒物屋、菓子屋、草履屋、豆腐屋、茶屋等々の商家が並び、旅籠も14軒を数えた。しかし、いまは無人のままの民家も目につき、宿場として栄えた頃の面影はまったくない。 
イメージ樺色の格子造りの民家
(1976年)
 「蔦木に泊まることにした。ここはまことに旧宿の感が深い集落である。あの黒づんだ樺色の格子が破れた壁に相応しい。古い廃れた旧宿に泊まって、朽ちた柱に匂いを嗅ぐほど、侘しいものはない。」(本荘可宗)と記されたのは1937年のことだ。もちろん、現在、旅籠を営む家があるはずもないが、60年代までは、行商人向けの木賃宿が一、二軒はあったと思われる。
イメージ「応安の古碑」から蔦木宿を遠望
(1976年)
 いまも残る古い民家のいくつかは、1864年の大火後に建てられたものだろうか。大火から数年後の68年、小沢雅楽之助らは公家・高村実村を奉じ、「幕軍追討」の命を受けたとして約千人の高松隊を組織し京都を出立。杖突峠を越え、甲府をめざした。蔦木を通過したのは、このあたりが一番の寒さを迎える二月だった。結局、三千に膨らんだ高村隊は「偽官軍」の汚名を着せられ、武装解除。高松は京都送りとなり、小沢は斬首。いうまでもなく、それは、倒幕派の主導権争い、権力闘争の結末だった。
イメージ 蔦木宿の裏通りに並ぶ土蔵 「黒づんだ樺色の格子」の民家は、枡形近くに70年代まで残っていたがいまはない。そして、そのころ宿の入り口付近の応安(1372)の古碑がある旧道はどろんこ道のままだった。ところで、街道に平行した用水路のある裏道には、いまも蔵がいくつも並び、そこだけは車も入らず、静かな宿場の景観を楽しめる。

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