知られざる宿場

三斗小屋宿

イメージ三斗小屋宿全景 紅葉真っ盛りの季節に、念願の三斗小屋宿跡に出かけた。三斗小屋宿は、会津中街道の宿場であった。この街道が開通したのは1695(元禄8)年である。会津中街道は、会津若松から湯野上を経て、険峻の大峠を越え、奥州街道の氏家宿に至る道筋だった。江戸までの行程は、白河経由の奥州街道や田島経由の会津西街道を利用するよりは短縮されるが、標高1500メートル級の那須連峰を越えるのは並み大抵ではない。にもかかわらず、参勤交代にもこの街道が利用された。そして、この谷底のような宿に25〜6戸が住みついたという。しかし、あまりの難路ゆえに二十年あまりを経て、街道としては廃道扱いとなった。
イメージ宿跡の石仏  ところが、それから170年を過ぎた1868(慶応4)年、戊辰戦争のときにこの宿場は、戦火に見舞われることになる。薩摩・長州を主軸とする討幕軍を迎え撃つために会津軍が三斗小屋宿に進軍した。兵力はわずかに100〜200人だった。それに倍する追討部隊の黒羽藩兵らが猛攻撃をかけた。会津軍は、宿の前方に堡塁を築き応戦したが、2〜3日で勝敗は決したようである。そのとき、二十数戸あった家並は全焼した。その後も物資の運送を手がけたりなどして山村集落として機能していたが、1958(昭和33)年に全戸が離村したという。
イメージ用水路跡  現在、宿跡には、山々に囲まれた平坦地に宿場時代の常夜塔や石造仏が残されているだけだ。ただ、宿場の中央を流れていた用水の石組みが当時のままであるのが貴重である。全国の旧街道で宿場時代の用水路を残しているところは極めて少ないからだ(観光客目当てに新しく豪華な石組みに変える宿跡が多い!)。 
イメージ白湯山ときざまれた常夜塔  そしてまた、ここは白湯山信仰の発祥地でもある。1672年、ある村民が、那須岳の西で白濁した湯が沸き出すあたりに仏菩薩が現れご来光を見たという話から転じて、五穀豊穣・無病息災を祈願する白湯山信仰が会津方面にまで広がった。毎年の山開きには千人もの行者が登った記録が残されているほどだ。もっとも盛んだったのは文化・文政から幕末にかけてであったが、明治・大正を経て、戦後まで細々と続いていた。それは、那須岳を奥の院とみる山岳信仰の一形態でもあり、宿跡の倒壊した鳥居のところからは、真正面に白湯山が望める。
イメージ会津中街道・石畳道  さて、三斗小屋宿から板室宿への街道は、じつに険しい急坂だ。深い渓谷にそった1メートルに満たない難路を、参勤交代の行列や戊辰戦争のときの討幕軍は、そしていくつもの俵を積んだ廻送の人馬は、どのようにして上り下りしただろう。「山路絶険にして糧食運び難し」「この行路常に鉄鎖を設け、行人這いて通ずる険路なり、故に行軍ただ困窮す」(黒羽藩資料より)
 「熊に注意!」の標識をみながら峠を越えるのに二時間弱である。なお、会津西街道には、あちこちに一里塚や石畳が残されていることも付け加えておきたい。
(2005/11/9)

〈知られざる宿場〉一覧に戻る

トップページに戻る