知られざる宿場

長久保宿

イメージ長久保宿全景 中山道の長久保宿は、山の中のかなり勾配のある宿場であった。江戸時代の案内には「宿あしし」とか「わびしき宿」などと記されていたというが、四十五軒もの旅籠が数えられたほどだから、宿場としては大いに賑わっていたと思われる。それは、長久保から別れて上田へと通じる商業道路というべき「上田道」があったからだろう。
イメージ旧旅籠(1966年) 最初に長久保を訪ねたのは61年であった。その頃は、宿場時代を想起させるほどの「わびしさ」が充分に漂っていた。二度目が66年である。長い坂道の両側には依然として旅籠の家並みがどこまでも続いていた。坂道を下りきった突き当たりで、右手への上田道と左手への中山道とに分岐するが、和田宿へ向う街道筋にもまだまだ旅籠らしき家並みが認められた。予定をつくらぬ旅であったので、当日は、突き当たりの木賃宿にわらじならぬ運動靴を脱いだ。(そのとき撮った写真の一部は『郷愁nostalgia』北冬書房刊に収録した)
イメージ元造り酒屋「釜成屋」  その後も4〜5年おきに訪ねてみた。少しづつ古い家並みが消えていった。いまでは、坂道のなかほどに「資料館」の一棟を残すのみであるが、宿の入口付近には宿場時代の景観がわずかに残っている。今年(06年)、ちょうど宿はずれの松尾神社の例祭に出会った。街道に飾り付けた提灯が、旧宿の面影を伝えているようだった。
イメージ 急坂に面した古民家 ところで、30年代はじめ、天皇制ファシズムの嵐が吹き荒れようとしていた頃、「自給自足・自主自治」を掲げた農村青年社の若者たちは、長久保において「信州コンミューン」を実践しよう考えていた。そして、実際に全村一丸となっての「自主自治」がささやかながらも展開されたと聞くが、どのような内実だったかは詳らかでない。つげ義春さんは、周辺の部落解放運動と関係するのかもしれない、と示唆された。

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