知られざる宿場

鍋掛宿

イメージつげ義春画・北温泉  つげ義春は、かつて雑誌『ぽえむ』の連載で、「桃源行」と題して栃木の北温泉をペン画で紹介した。また、鄙びた北温泉の魅力について縷々語ったりもした。いまでも、北温泉は、江戸時代の湯治場の姿をよく伝えている。
 ところで、北温泉への下車駅である黒磯から北温泉とは正反対の南東には、奥州街道が白河、郡山方面へとまっすぐ北にのびている。黒磯から4キロほど南東よりに鍋掛宿跡がある。いまでは、そこに宿場があったとは想像もできないほど殺風景なところだ。
イメージ苔むした石橋 1808(文化5)年に立てられた芭蕉句碑などが目につく程度で、家並みはほとんどが戦後のものである。街道にそって清流がサラサラと心地よい音を立てているけれども、その苔むした用水路も大正時代に改修されたときのものという。江戸から明治にかけて二十数軒の旅籠を数えたというから、それなりに賑わった宿場だったのだろう。しかし、明治になって宿駅制度は廃止された。そして、その後に鉄道が開通したため、黒磯から遠く離れた鍋掛宿は、農業に転業するしかなかった。宿場はずれの那珂川を渡ったところが越堀宿跡だが、ここも同じ運命にあったろう。
イメージ鍋掛宿の用水路 さて、筑波山で挙兵した水戸天狗党は、1864(元治1)年11月、越堀、鍋掛の両宿に着陣。その数は千名に及んだ。ただ、天狗党には、このほかに上州隊を名のる二百名がいた。上州隊のリーダーである田中愿蔵は、もともと天狗党に参加していたが、攘夷を主張する指揮官の藤田小四郎と意見が合わず、別働隊を組織するため上州に赴き、若い博徒や農民をかき集めた。 彼ら上州隊の全員が断髪だった。
イメージ80年代の鍋掛宿 「倒幕」を旗印とした上州隊は、それでも天狗党と行動をともにした。ただ、栃木で軍資金を要求し、拒否されると陣屋に火を放ったことから天狗党幹部の逆鱗にふれ、除名される。にもかかわらず、彼らは天狗党とつかず離れずの行動をとった。だが、放火・略奪の罪で幕藩から追われる身となり、組織を解散する。ところが、逃亡者となった彼ら若者は、やがて各藩兵に捕縛され、田中愿蔵をはじめとして、40名近くがあちこちの河原で処刑された。このとき、田中愿蔵は、まだ20歳だった。結局、転戦につぐ転戦の天狗党も全滅することになるが、小四郎は、敦賀で処刑されるとき、「倒幕を説いた愿蔵が正しかったのかもしれない」ともらしたという。
イメージ慰霊碑付近の奥州街道 上州隊は、上州・下州の農民たちからは「世直しさま」とよばれた。1876(明治9)年には、越堀宿からさらに北の畑のなかに処刑された「浮浪人」(上州隊)の慰霊碑が建てられた。愿蔵のことを「早すぎた変革者」と評する声もあるが、豪商の多かった栃木周辺では、いまも「盗賊」「悪党」よばわりである。

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