知られざる宿場

本洗馬宿

 「この里は、よその国よりたいそう涼しく、朝夕はまだ厚い着物を重ね着してやっと麦を刈り収め、まゆから糸をひく仕事のかかっているが、そば畑はいま、青々とひろがり」「遠く眺めると、桔梗が原は青海原のようで、緑のむしろを敷いたように、またうすく紅葉したか、枯草かともみえるのは、刈のこした麦畑であろうか。」「日も暮れようとするころ、女の子たちが七日の夕と同じく着飾って、おお輪にござれ丸輪にござれ十五夜さんの輪のごとく、と歌い。ささらをすり、むれだってあるいている。」(『菅江真澄遊覧記』宮本常一、内田武志編訳・平凡社)
イメージ本洗馬の家並み(1984年頃) 菅江真澄が三河の豊橋をあとにして、名所・旧跡を訪ねる旅にでたのは1783年(天明3)、30歳前のことだった。伊那を過ぎ、三州街道と中山道の合流点である洗馬宿の北西、奈良井川を渡った台地上の本洗馬にたどりついたのが五月頃だ。そして、本洗馬を基点に周辺への旅を繰り返し、「伊那の中路」と題してまとめたのが先の記録である。
イメージ釜井庵  そのなかに記されている長興寺周辺の情景は、いまも当時のままであり、真澄がしばらく暮らした茅葺きの釜井庵も長興寺の近くに現存する。そのたたずまいは、真澄が絵筆でスケッチした通りだ。長興寺の石段を登って鐘楼のわきから振り返ると、二十年ほど前までは、まさに「桔梗が原は青海原のようでー」の風景が広がっていたが、まわりの樹木が大きくなりすぎて、いまは展望がいまひとつである。
イメージ長興寺庭園(江戸中期作庭) 本洗馬は、正式な宿場ではない。しかし、江戸時代に入っても集散地として、流通経済の要地として栄えたにちがいない。南北にまっすぐのびた街道の真ん中には60年代まで用水路が流れていた。街道の出入り口には枡形を残し、宿場としての形態を保っていた。カラスオドシをつけた信州独特の本棟造りやいかにも旅籠風の格子造りの民家が街道に面して家並みを形成していたが、ここ二十年で大きく様変わりした。
 五月の連休が本洗馬の祭りである。京都の宮大工が作ったと伝えられる小さなかわいい山車が二基、子どもたちを乗せて街道を進む。イメージ本洗馬の祭り山車を引く青年団によれば「ついこのあいだまでは、夜店がこの街道に百軒くらい並んで」ということだが、いまは一軒も出ない。「若い連中は東京に出て行って、ゴールデンウイークといっても帰ってこない。青年団もいまやオジサン団なんだ」と。とはいえ、街道につるされた色模様も鮮やかな提灯は、真澄が目撃したころの静かな農村のくらしを想起させるに充分だ。街道にはあちこちに道祖神が並ぶ。選挙ポスターが貼ってある高札場は江戸時代のままだろうか。何年か前には、釜井庵に隣接して「本洗馬歴史の里資料館」も完成したのだが、訪れる人はまだ少ない。
 「この里の祭りというので、近くの村々の人々が多く集まってきた。白い布で飾った馬に和幣をさし、神の御名をしるした幡をそれぞれおし立てて進んでいくのは、大名の道中行列をまねている。鈴の音もすずしく馬を引いていく男が、御世のためしを千代万代、とうたい、太鼓や笛の鳴り響くなかを、獅子頭をかざし、あるいは車をおしたてて、所作の舞をまっていく。」(前掲書より)

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(左・祭りの日、中央・古民家、右・湧水井戸)


(2004年7月7日)

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