知られざる宿場

駒飼宿

 中央線の笹子駅を下車し、駅前の黒野田宿跡を通り過ぎ、しばらく歩くと旧甲州街道は、国道20号と分かれて山の中へとわけ入っていく。ただ、60年代までの国道は、旧道にそって九十九折りの登り坂が笹子峠まで続いていた。いまも、そのコンクリート道路は残されているから、車でも入れる。しかし、道幅1メートルそこそこの雑草におおわれた旧道を汗水流しながら登るほうに情趣が感じられる。
イメージ山中の旧甲州街道(77年頃) 二時間ほどで峠だ。峠の少し手前に、北斎が描いた当時のままの「矢立ての杉」がある。国道がここを通っていた60年代には、短い笹子トンネルを抜けた平地に茶屋などがあったということだが(つげ義春談)、いまは、「茶屋跡」の説明板があるだけだ。こんどは、一時間半かけて旧道をくだる。あるかなきかの様相を呈しているから注意が充分に必要だ。
イメージ急坂道の駒飼宿跡 やや視界が開けたところに、忽然と駒飼宿が現れる。急な下り坂の両際に甲州独特の突き出し屋根の茅葺民家などが目に入る。江戸時代には、寂しい山の中とはいえ旅籠を十数軒も数える宿場だった。そうした旧宿の面影を伝える景観が80年代初めまで残されていたことは、驚きである。そして、それは、国道からはずされた山間の宿場跡が、いかに貧しかったかを物語ってもいる。 
イメージ甲州独特の突き出し屋根 1868年(慶応四年)、京都から敗走した近藤勇は、新たに甲陽鎮撫隊を組織して、板垣退助らが入城している甲府城を奪還しようとして、ここ駒飼宿で軍議をひらいた。三月六日、次の鶴瀬宿をすぎたあたりで倒幕軍と衝突したが、圧倒的な兵力を前に完敗。半数に減った百数十人の近藤隊は、再び駒飼宿に引き換えし、そのまま笹子峠を登り、江戸方向へと敗走しつづけたという。
 70年代までは、近藤や板垣らが目にした駒飼宿の景観が目撃されたといってもいいだろうか。旧街道が国道として使用されていた頃は、行商人も多く、60年代まで二、三軒が宿屋を営んでいた。しかし、バブル期に入ると、次々と茅葺の民家は姿を消し、旧宿の面影は薄れていった。そして、数年前、宿跡の中央に「駒飼宿跡」の大きな案内図が掲げられた。茅葺民家は、いまやほとんど見当たらないが、山の中の常寂たる宿場の雰囲気は伝わってこようか。 (2004/7/30)

イメージイメージイメージ(3枚とも、80年前後まで残っていた駒飼宿の元旅籠)

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