知られざる宿場

郷原宿

イメージ1968年頃 「ここの住民は、家を自分たちだけで楽しむものではないと思っている。家とその前に庭をつくり、旅人と家族がそろって、楽しんでいた様がうかがえる。個々の建造物の国宝はあるが、もしひとつの集落を国宝にできるなら、文句なく私は郷原を推すだろう。郷原はそれほどすばらしい」と民芸家の柳宗悦が書き残したのはいつの頃だったろう。
イメージ1968年頃 長野県塩尻から西へ2キロほどのところに位置する郷原の宿跡は、60年代の後半にあっても、柳が目撃したそのままの景観が望まれた。60年代はじめに街道の中央を流れていた用水路は片側に寄せられたが、種々雑多な草木に囲まれて、集落は静謐な宿場の雰囲気を漂わせていた。奈良井や妻籠や海野の宿場跡よりもはるかに規模は大きかった。隣接する堅石の宿と合わせると、一キロ以上に及ぶ長い宿場であった。そこに数十軒の古い民家が軒を並べていた。すずめおどしをつけた信州独特の本棟造りや連子格子の横屋造りなどが並ぶ情景は、壮観である。
イメージ山城屋(1968年)  善光寺西街道と呼ばれたように、郷原宿は、かつて善光寺詣での善男善女で賑わったのかも知れない。安政の大火で宿内の建物はすっかり消失したということだが、60年代に残っていたうちの九割近くは、大火直後に建てられたものだったようだ。宿の中ほどにあるひときわ大きな山城屋は、本陣をつとめたといい、佐久間象山が宿泊した部屋も残されているという。そのすぐそばには、つるべ井戸も健在だった。
イメージ 2002年の様子 ところが、70年代の中ごろを過ぎて、郷原は一変した。近くに大学ができたために、広大な土地が売却され、臨時収入があったとか。次々と古民家が消え、いつのまにか和洋折衷の豪邸が並んだ。とはいえ、四季折々の草花が咲き誇る情景は、いまも垣間見られる。(2004/11/10)

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