山水巡礼

上野戦争

イメージ当時の模様を描いた錦絵 上野駅正面玄関の向かい側、現在の昭和通りを隔てて東に少し入ったあたり、旧地名の車坂で祖々父・清次郎は小さな魚屋を営んでいた。薩長に率いられた東征軍は、抵抗する彰義隊2000人ほどが布陣する上野の山を包囲し、総攻撃をくわえた。この壮絶な上野戦争がくりひろげられたのは1868年5月15日のこと。「薩摩の芋侍にこの江戸を渡してなるものか」と彰義隊は、上野寛永寺の境内に立て籠り「侵略者」である東征軍に猛然と反撃したが、戦闘はわずか半日で終った。彰義隊の全滅であった。
イメージ 輪王寺山門  祖々父は、このとき25歳前後である。激戦地から200メートルと離れていない車坂門の手前から、徹底抗戦する彰義隊の若者たちを同世代の清次郎はどのような思いでみつめていたのだろう。寛永寺の伽藍を焼きつくし、三百余人の彰義隊を殺戮した薩長軍に対して、祖々父が敵意を抱いたか、あるいは諦めの境地にあったかはわからない。家業を継いだ祖父・竹次郎は、上野戦争の様子を祖々父から聞かされたことがあっただろうか。
イメージ日暮里の教王寺山門 1945年、連日連夜の空襲にも関わらず、祖父は転居した渋谷から上野、浅草へと毎週のようにくりだしていた。「江戸っ子」12代目を自慢していた祖父が、上野戦争、関東大震災、東京大空襲をどんな思いで見ていたのかもわからない。祖々父たち先祖の墓地は、江戸八百屋町の北限である千住の安養院にある。
イメージ 円通寺に残る黒門  上野戦争のときの激戦を伝える遺跡が上野周辺にいくつか残されている。無数の弾痕を残す寛永寺の総門であった通称・黒門は、彰義隊戦士を埋葬した南千住の円通寺に移された。 国立博物館わきの輪王寺(旧寛永寺本坊)の大きな山門にも弾痕が認められる。
イメージ清水観音堂の黒門
  寛永寺の北方に当たる日暮里の教王寺にも彰義隊が立て籠ったため山門にいくつかの弾痕が残る。清水観音堂の下に同じように弾痕をとどめた黒門が最近まであった。それは1964年に忠実に復元された六代目黒門ということだが、円通寺に残された黒門とは構造も大きさも異なっていた。たぶん、寛永寺八門のいずれかを模したものと思われる。


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