山水巡礼

鵜原理想郷

 外房の鵜原周辺は、リアス式海岸の様相を呈し、その複雑な入り江の各所には小さな漁港が認められる。与謝野晶子は、松林に囲まれた風光明媚な岬の高台に立って数十首もの歌を詠んだそうだが、そこが「理想郷」の名で脚光を浴びたのは、大正も末になってである。
イメージ理想郷の小さな漁港 当時の観光開発ブームの余波をうけて、鵜原が別荘地として開発され、その際に「理想郷」と銘々されたのである。たしかに、太平洋に突き出た岬までの緑ゆたかな平坦地からの眺望は、その名称に相応しい。
 1935年、二見敏雄ら無政府共産党の若者たちが、日中戦争のさなかに「革命」を計画したとして検挙された。この「無政府共産党事件」が解明されるにつれ、理想郷にダイナマイト五十数本を隠していたことが発覚した。若き理想主義者たちが、「理想郷」の名に惹かれたのかどうかはわからない。
イメージ岬へのトンネル

 それから九年ほどして、入り江の漁港が特攻隊の訓練基地となった。米軍の本土上陸を迎え撃つため、ベニヤ造りの特殊挺「震洋」で自爆攻撃を、ということだった。学徒動員による第十四期飛行予備学生が鵜原に集結し、毎日、特攻訓練を続けた。いまも、彼らが掘った大小のトンネルや洞窟があちこちに残されている。
イメージ大平洋に望む断崖  かつて三島由紀夫は、「岬にての物語」という小説を書いた。この岬とは、鵜原・理想郷のことである。三島は、幼少のころ鵜原で過ごしたことがあったのだろう。幼少期の思い出といってもいい、その美しい、しかし、「死」におおわれた鬼気迫る小説は、特攻訓練が繰り返される、まさにそのときに構想された。三島もまた、自らの「戦死」を予感し、この短編を遺書のつもりで執筆したのではないか、と評されている。
イメージ 理想郷の小さな入江  「類ひない岬の風光優雅な海岸線、窄いがいひしれぬ余韻をもった湾口の眺め、たたなはる岬のかずかず、殆んど非の打ち処のない風景を持ちながら、その頃までに喧伝されて来た多くの海岸の名声に比べると、不当なほど不遇にみえる鷺浦は、少数の画家や静寧の美を愛する一部の人の間にのみ知られていて――」(「岬にての物語」より)

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