
つげ義春「石を売る」 椹木野衣の美術評論集『戦争と万博』のなかで、故石子順造とつげ義春との関係が叙述されていたが、いくつかの事実の間違いが見受けられたので訂正しておきたい。
椹木は、現代美術家・李禹煥の談話「石子さんからしょっちゅう電話があって、ある時、<なにをしているの、ちょっと来い>というので、行くと、いつもといっていいくらい、マンガ家がいるんですよ。入り浸っていたのは、つげ義春です。」(石子順造とその仲間たち』所収)を根拠に、「石子の影響下にあったつげ義春」像を形成しているようだ。また、つげのマンガ作品「無能の人」シリーズが、あたかも石子の丸石への関心から出発しているような書き方に読める。
筆者は、60年代半ばから石子とつげの両者の近くにいたので当時の様子は記憶に新しい。そのあたりのことを可能なかぎり再現したい。「ねじ式」を発表した翌年の69年の正月に、つげは石子の静岡の自宅で数日を過ごした。そのときが李との初対面であったはずだ。このときの様子は、石子が『芸術生活』誌上にエッセイのかたちで記録している。椹木は、「つげが石子の住んでいた新宿十二社の星アパートに引っ越してくるのは69年の3月である。」と記したが、これだと、あたかもつげが石子と同じアパートで暮したように読める。そうではなく、石子がべつのマンションに転居した結果、それまでの石子の仕事部屋につげが調布から越してきたのである。このあたりの事情は、筆者も『つげ義春一九六八』(筑摩文庫)で明らかにしている。
たしかに、転居した石子のマンションは星アパートからも歩いて行ける距離だったので、つげは石子の部屋をたまに訪れていたようだ。いや、つげの部屋へ石子がしばしば訪れていたといったほうが正確かもしれない。ふたりの往来を石子は周囲の人々に「自慢げ」に語っていた。たぶん、李もそのことを聞かされていただろう。だが、静岡の正月以降つげは李に会うことは一度もなかった。問題は、李の記憶違いや思い込みをそのまま受け止めてしまった椹木の論述の内容にある。
本書における「そこにはいつも石があった」と題された六章は、多く石子順造の評論や位相に的が絞られており、それは現代美術を通しての石子の再評価の趣きさえうかがわれないではない。つまり、石子の仕事への強い関心である。しかし、そのとき勢い余って軸の中心が石子へと傾斜しがちとなる。多摩川での石売りを主人公とした「石を売る」シリーズまでが、「石子の影響下」の印象すら与えかねない。しかし、つげがそれらを連作したのは、1985年である。石子が他界してすでに8年が過ぎ去っていた。つげが石売りに関心を抱いたのは、住まいに近い多摩川で石拾いの老人に出会ったからであると、自ら記していたはずだ。
石子が石にまつわる事象に強い関心を示したのは71年頃ではなかったかと思う。それらは、現代美術家周辺との「共同研究」によるものだったのだろう。つげは69年3月には調布へともどっていたから、十二社での石子との往来は68年以降のわずか1年だった。したがって、石子がつげに石にまつわる話を展開したことはなかったように思う。筆者は、つげが去ったあとに石子からなんども石にまつわる話を聞かされた。筆者は、60年代はじめから道祖神に関心があったので、石子の話しを楽しく聞いた。だが、石子は、山梨の丸石神にこだわりながらも、長野や群馬の道祖神や石像物にはいっさいの関心を示さなかった。どうも、民俗学的な興味よりも、いわば造形的な興味が強大だったように見えた。
ところで、椹木は、「李と交流のあった石子は、それを日本的風俗に根ざしたサブカルチャー的消失劇と接続して考えている節があった。ときまさしく石子が現代美術への関心を急速に失い、マンガの世界へと接近していく時期にあたっている。それにしてもなぜ、石子は「美術」を捨ててまで「マンガ」の世界に惹かれていったのか。」とも記した。この文脈からは、「美術」があたかも「マンガ」より優位に存在するように読めないこともない。それはたとえば、石子の「絵馬研究」にふれて、椹木が「無名の民衆が自分の願望実現のために奉納した、たわいもない嘆願書き」といとも簡単に片付けてしまうところにも表象されよう。絵馬は「願望実現」のためでもないし、「たわいもない嘆願書き」でもない。それは民衆の「悲願」であり、「祈り」であった。そうした屈折した民衆の様態については石子も繰り返し言葉を費やしたはずである。
50年代にマルクス・レーニン主義者であった石子が、60年代後半の「叛乱の季節」に現代美術への関心を失うのは、至極当然であった。石子がつげ義春と出会ったのは、67年である。当初、つげ作品に関心を持たなかった石子は、やがてつげ作品から目が離せなくなる。そして、つげ義春や漫画主義同人との交流のなかで、石子は「民衆観」をあらためて模索することになる。最近、復刻された最後の著書『子守唄はなぜ哀しいか』がそれをもっともよく象徴しているだろう。石子の著書である『小絵馬図譜』や『丸石神』を含めて、それらはある意味でマルクス・レーニン主義からの離脱、あるいは新たな視座の出発を物語る。それは、「石子順造がつげ義春の影響下」にあったことを意味しようか。石子にとって、現代美術に象徴されるような「ことば」に依拠した単純な「知への信仰」や教条的な「理論への信仰」は、もはや遠い存在となっていただろう。
(2007/7/25)
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