
三村晴彦著「「天城越え」と加藤泰」 三村晴彦さんと初めてお会いしたのは、1970年の春であったろうか。四谷公会堂で加藤泰監督と深作欣二監督の映画が上映された。加藤泰監督の本を製作する際に、「緋牡丹博徒・お竜参上」の撮影を見学したが、その一ヶ月後くらいだったと記憶する。映画上映後に加藤監督と深作監督が講演をした。そのあと、加藤さんが「近くで三村さんが待っていますので」といい、深作さんと一緒に新宿のバーだったかについていった。加藤さんが、深作さんや私たちに「三村青年」を紹介された。そのとき三村さんは、32か、33歳だった。「『皆殺しの霊歌』の脚本家にぜひお会いしたいといってたんですよ」と加藤さんが、私を紹介した。三村さんは「恐れ入ります」とソファーの隅でしきりに照れていたが、その少年らしい姿が印象に残った。
しばらくして、加藤監督は、松竹映画をつぎつぎと手がけるようになる。「人生劇場」「花と竜」「宮本武蔵」「陰獣」と。大船の松竹撮影所になんども見学に訪れた。毎回、三村チーフ助監督が、現場へ案内してくれた。ときには、三村さんが、B班監督として、「ヨーイ、ハイ!」と進行していた。ある日、三村さんの姿が見えなかった。加藤監督が、「いやー、反乱を起こされましてね、出てきてないようですな、でも、そういう主張があることは大切なことですから」と笑いながら「弟子」を擁護していた。
そのころからだったろうか、三村家をたびたび訪ねるようになった。大きな本棚が並ぶ書斎でお互い勝手な「映画論」を語り合った。三村さんから、監督第一作目の作品は、なにがいいだろうかと質問されたこともあった。そして、書き上げた鉛筆書きのシナリオを渡されたこともあった。たぶん、「皆殺しの霊歌」のシナリオを「最高作品」と常日頃いっていたからかもしれない。「皆殺しの霊歌」だけではなく、「男の顔は履歴書」や「阿片台地」などの加藤作品のエピソードなどもたくさん聞いた。どれもこれも貴重な証言だったので、それらを書き残しておいて欲しいと伝えたのだが……。
映画「天城越え」の伊豆ロケを友人たちと訪ねたこともある。炎天下、三村監督は汗を流しながら、演出に全精力をつぎ込んでいるように見えた。そのとき、素晴らしい映像が私たちを楽しませてくれるだろうと確信した。初号試写は、イマジカで三村監督、加藤監督をはじめ、山根貞男さんらと一緒に見た。三村さんが終わって「どうでした?」と尋ねた。加藤監督が「合格です!」といって、みんなの笑いを誘った。
その後、加藤監督が他界されてから、多少疎遠になった。といっても、ワイズ出版で、『加藤泰・映画華』の編者となったとき、しばらくぶりに三村家を訪ねた。貴重な証言を採録しようと思い、長時間のインタビューを試みたのだが、出版社の都合により全体の半分も収録できなかった。
2004年、ラピュタ阿佐ヶ谷の加藤泰連続上映の企画に参画した。このとき、三村さんの書き継いだ文章をまとめようと思い、三村家を訪問した。三村さんは、二つ返事で了解された。内容は、三村さんの希望通りとした。『「天城越え」と加藤泰』の書名も三村さんの意見に従った。わずか126ページの小冊子だが、そこには三村監督の映画に寄せるかぎりない情熱がほとばしっていた。
昨年の暮れ、テレビドラマ「敵は本能寺にあり」放映のお知らせが届いた。ハガキの最後に「読書と散歩とDVD・・・毎日が日曜日です。ご自愛専一に。」とあった。そして、今年の賀状には「穏やかな年でありますように。ご健勝をお祈り申し上げます」と、極太の万年筆で力強く記されていた……。
享年71歳。 ご冥福をお祈りします。 (2008/8/5)
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