
潤ますみ主演「玉割り人ゆき」を渋谷シネマヴェーラで31年ぶりに観た。31年前は封切り館の渋谷東映で観たのだが、この時、短い映画評を映画雑誌に書いたことがある。牧口雄二監督の尖鋭な手腕を評価した内容であったと記憶するが、当時、他の誰もが評価しなかったことが残念でならなかった。そして、何十年ぶりに接してみて、牧口作品の演出(表現)が際立っていたことを再確認した。
この映画は、京都の郭で特殊な職業に就く女性を主人公とした「ポルノ映画」であるといってもいいが、にもかかわらず、そこには濃密な劇性が感じられた。かつて、牧口監督は、「脚本(田中陽三)の出来による」、と謙遜じみた言葉を発していたが、やはり作品の力は演出(表現)の力に由来するだろう。冒頭からラストシーンにいたるまで、無駄のない張りつめた映像が持続する。それは、静謐なロマンティシズムに支えられてである。いわば、その「抒情」を追いかける演出が、監督のもって生まれた繊細な美意識を物語る。下駄の鼻緒のブルー、着物の襟足のブルー、濃紫の着物等々から、郭を囲む町なかの機織りの音を含めて、ハッとするほどの「美しさ」がそこに展開される。
たしかに、脚本がその道筋をつけた、と言うことはできるのかもしれない。ゆきの相手役である男は、大杉栄の復讐を企てるグループのひとりだ。ゆきと男の偶然の出会いからラストにいたるまでのドラマに説得力が感じられるのも、脚本の力ということもできよう。脚本を担当した田中陽三は、鈴木清順の作品を手がけていたとき、ともに大正時代の無政府主義者の姿を追い求めていたと聞く。結局、その企画は頓挫してしまったようだが、そのときのドラマツルギーをこの映画に注ぎ込んだのかもしれない。傍役でしかない破滅に向う青年たちの怒りが、女主人公の存在の「暗さ」をいっそう強調する。
とはいえ、この映画は見事な娯楽性に覆われていた。凡百の「ポルノ映画」や「ヤクザ映画」よりもすぐれていた、とみていいだろうか。あるとき、加藤泰監督とこの映画について会話したことがあった。牧口監督が、助監督時代に加藤作品に従事した経験があったからだ。加藤監督は、「玉割り人ゆき」を観てはいなかったが、当方の評価を聞いて、「ぼくもポルノ撮りたいなあ。ちっともお声がかからんですが、意外と上手いとちゃいますか」といって笑った。
それにしても、ゆきを演じた潤ますみの「暗さ」と心に沁み入るような張りのある澄んだ声は捨てがたい。
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