
「夏目房之介研究」は、次号の『貸本マンガ史研究』で展開する予定だったけれども、そこでの内容は、なるべく貸本マンガに関する事柄を中心としたい。したがって、今回の「論争」とはやや距離をおくことになるだろう。もちろん、基本的な認識において少しも変わるところはないから「論争」と觝触するのは避けられまい。ただここにきて、夏目がふたたび権藤批判=弁解(?)を開陳したので、そのことにだけふれておきたい。なお、「論争」に発展したことで、夏目が「権藤氏が」とわざわざ敬称を付加するところにある種の狡猾さと見苦しさがみてとれる。いままで、権藤批判をする際にいちどとして敬称をつけたことはなかったはずだが、言い回しまでが強い調子からやわらかな調子へと後退してきている。自らの言動に「危機」を感じ、いまになって夏目ファンや不特定の読者におもねるのは不誠実ではないかと思う。
さて、「新たな軍国主義」の問題である。夏目は、天皇制国家における「軍国主義」を持ち出し、現体制は戦前のそれとは大違いであると力説する。そんなことは百も承知である。戦後の憲法は国軍の存在を承認していない。にもかかわらず、自衛隊は、ブッシュが主導したイラク侵略戦争に参加した。いまだに自衛隊員に戦死者が出ていないからといって、「参戦ではない」との解釈は認められない。自ら志願したとしても、自衛隊員やその家族は、常に「もしかしたら」という不安のなかにいるはずである。そして、イラク戦争のなかで民間人の何人かが亡くなった。それは、あきらかな戦争死である。いや、そこには十万人に及ぶイラク人の戦争死があり、アメリカ兵やイギリス兵などを含めた多くの戦争死がある。
たしかに、私たちが暮らすこのクニは、「平和憲法」を護持する「民主主義国家」であるだろう。(すべてを括弧でくくらねばならないほどの内実だが。)ではなぜ、政府もマスコミもイラク反戦運動に対し異常なまでの警戒心をあらわにするかである。天皇制国家ではないから、あるいはまた治安維持法も撤廃されているから、おもてだっては民主的にふるまっているようにみえる。だが、現実は違う。反戦運動に対する弾圧は予想以上であるようだ。それは、立川をはじめとする「反戦ビラ」ポスティング事件をみても明らかだ。反戦を唱えたとたん、警察権力は、「みせしめ」のために逮捕しつづける。荻窪での「反戦落書き」事件も同様だろう。さらに、反戦デモのたびに若者たちが逮捕されているらしい。「民主警察」は、その都度、公務執行妨害等々の容疑で反戦派を逮捕するが、結局は、具体的な容疑は立証できないから不起訴になる。いわば、反戦派に対するただの「脅し」であり、「いやがらせ」なのである。イラク戦争に参戦した「民主主義国家」にとって、まずは反戦運動の拡大を根絶することが目的であるだろう。そして、いわずもがなだが、マスコミは経済的な利害を考えて、そうした水面下の弾圧を報道しないように心がける。
夏目は、テレビと新聞といったマスコミをしか信用していないから、二項対立のない「平穏な時代」と思っているのかもしれない。昭和初頭の天皇制国家下の人々も、夏目と同じように時流に身をまかせ、まさか十五年も戦争が続くとは思っていなかったに違いない。ところが現在は、ある意味で当時より悪質である。なぜなら、「民主主義」の名において戦争を推進しているからだ。そのうえで、世界の民衆の戦争死が見えないように目隠し状態をつくりあげる。私が「新たな軍国主義」と記したのはそのことである。「新たな」というのは「巧妙な」という意味である。治安維持法が撤廃されても、不自由しない手口によって反体制派への弾圧が可能なのである。マスコミを抱え込んでの「口封じ」がうまくなったということである。たぶん、どこのだれが反戦派であるかを公安警察は、充分に把握しているはずだ。いまや、憲兵を必要としないほどの「新たな軍国主義」の時代にある、というのが私の見解である。
「新たな軍国主義」観を批判した夏目に、では、イラク侵略戦争についてどのような立場をとるのか、と問いただしたが返答はない。たぶん、そこのところの認識がすべての対立軸の基点となるだろうか。それを「日和見」といういいかたで片付けてはならない。答えを出さないのは、「日和見」だからではないはずだ。周囲を考慮して、自らの名誉や地位のために政治的な立場を明らかにしたくないだけなのだろう。そんなことは、マンガ論とは関係ないことだというかもしれないが、夏目が率先して政治的な批判を加えてきたのであり、著書である『マンガ学への挑戦』や『マンガと「戦争」』にも随所にきわめて「政治的な」発言がみられる。自らは「ニュートラル」のふりをみせるのだが、文言から透けて見えるのは、「ニュートラル」とは似ても似つかぬ「政治的な」内容である。今回の「是々非々」という態度表明は、イコール「なすがまま」ということを意味しよう。それは、イラク戦争に参戦した状況下でのただの自己保全でしかない。
夏目は、私の言説を「左翼的」な煽動のような言い方で印象操作にはげむが、それもおかしなことだ。夏目は、前々から権藤批判をしてきた。いわば、煽動・挑発してきたのは当の本人である。しかし、私はいまのいままで反論をひかえた。だからいい気になって(勝ち組の気分で)、またもや批判したのに違いない。私がこれまで反論しなかったのは、夏目とは政治的・思想的な対立が顕著に感じられ、結果に実りが期待できなかったからにすぎない。また、夏目がご執心の「マンガ学」にはなんの関心もなかったからでもある。そして、今回の「左翼的」なるものへの嫌悪を知り、「左翼アレルギー」が異常に強いのかも知れないとあらためて思った。ことわっておきたいが、私は「左翼」を僭称したことがない。いや、じつのところ「左翼」とも思っていない。できることなら夏目が妄想する「左翼」なるものからはもっと自由でありたいと願っている。ただ、夏目が読み手への印象操作として私を「左翼」と決めつける仕草を気にしないだけである。
イラク反戦デモのとき、ある若者たちは、「全世界の軍隊を解体するぞ!」と叫んでいた。それを「できもしないくせに」と揶揄・嘲笑する人を私は軽蔑する。若者たちだって、そんなことはどだい不可能であることを認識している。たんなる空想や理想を叫んでいるのでもない。次から次と死者が続出するイラク戦争を見ながら聞きながら、そう叫ばずにはいられないということである。絶望が深ければ深いほど、そう叫ばずにいられなかったということである。夏目には、イラク戦争も、どの「外国」の戦争も、「対岸の火事」にしかみえないのかもしれない。パソコンがこれだけ発達した現在、急激に世界は私たちの生活圏に近づいたはずだ。それでも世界の戦争を「対岸の火事」視することは、「利権」だけしか頭脳にない戦争指導者と位相をおなじくするということである。もちろんそれは、夏目にかぎったことではないのかもしれない。
戦時下、連日の空襲にあっていながら、都内の盛り場はいつもごったがえしていた。銀座も浅草もである。しかし、次の一瞬どこもかしこも焼け野原となった。「死んだ人はなにを語ればいい」と書いたのはだれだったか忘れたが、生きている者だけが戦争を語れるのだ。私たちは、戦争の悲惨や不幸を語る前に、「国家」という存在が、民衆の生き死になどに無関心であることをもっと語るべきだろうと思う。もし、このような言説を、アジテーションと見るかは夏目の勝手である。このクニの多数が現在の「豊かさ」を手放したくないと思っているのはたしかだろう。小泉の「だからアメリカに追従する以外にない」という方針を支持しているのが現状であるのかもしれない。だが、「我が家の幸福」しか関心のないような「民主主義」などなんどでも否定したい。私利私欲に奔走する人間以外にとって、本当は国境や国家など廃絶したほうがいいに決まっているからだ。
ところで、夏目が、ベトナム反戦運動を「若気のいたり」のような受け止めかたで、運動自体を貶めるのはどうだろう。夏目と同世代といってもいい、亡くなった桐山襲がどこかで語ったことがあった。かつて自らが参加した運動自体を批判することによって、自らを優位におこうとするのは人のなすべきことではない、その中に自分も存在したのだということを忘れてはならない、もし、批判があるとするなら自らだけに向けるべきである、というようなことを。
アフガン戦争のときだったと思う。渋谷周辺で反戦デモがあった。ハチ公まえの交差点にさしかかったとき、ジュラルミンの楯を手にした乱闘服に身を包んだ機動隊がデモ隊を規制しにかかった。わずか200〜300のデモ隊は終始押されぎみに交差点を進んだ。そのとき遠巻きに見物していた若者たちのグループが、「あいつら馬鹿じゃねえの。反戦だってさ、あたま悪いんだろうな。おまわりさん! ぜんぶ逮捕しちゃってくださいよ〜」と大声をだしていた。べつに驚くに値する事態ではない。現在は、そのような時代だということである。そうした若者(夏目流の大衆?)が全体の一部なのか、半数を占めるのか、あるいはもっともっと多くを占めるのかはわからないが、夏目は、そうした若者の側にありたいのかどうか、を正直に答えて欲しい。
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