『マンガ学への挑戦』という著書があり、サブタイトルに「進化する批評地図」とある。じつは、そのなかに「マンガ家と批評家」という項目があり、「すれ違う作家と批評」として、つげ義春・権藤晋『漫画術』(ワイズ出版)が俎上に置かれていた。これには数年前に目を通したことがあった。「批評家」(権藤)が作品や作家に迫り切れない憂慮すべき事態を揶揄や皮肉をこめて解説していくといういつもの夏目調だ。夏目にすれば、「揶揄や皮肉」ではなく、事実そうなのだ、といいたいところだろうが、「すれ違う批評家」と繰り返す言葉の端々に論者の卑屈な心象が見え隠れする。
であるから、読み終えたときに反論を用意する必要を認めなかった。結果、コンプレックスが異常に強い人なんだろうな、という印象を留めただけであった。大体、『漫画術』は、最初から「作家と批評家の対話」を目的としてはいない。そのことは、全体を見渡せば、あるいは「あとがき」を読むだけでも了解できることである。つまり、もともと「全作品についてのインタビュー」という認識から始まっていた(出版社もその方向で編集・宣伝していた)。もっと簡単にいってしまえば、つげ作品の個々の成立事情を聞き出したかったということである。したがって、作品に関しての検討はなるべく避けるように心がけ、作品の時代的背景、つまりは作家の日常に的をしぼろうとしたのである。 だが、当然、作品の内的世界に触れないわけにはいかないこともあった。作者が予想外に饒舌だったからだ。じつに、本に収録した二倍から三倍のインタビューとなった。なかには収録したい貴重な発言もあったのだが、作者は、校正の段階でおかまいなしに削除していった。
夏目は、なんとか批評家の「すれ違い」を強調したいらしいが、それはいってみれば「批判のための批判」を準備しているようなものである。というよりも、内容の全体を知らぬ読者にむけて「煽動」しているようなものである。あたかも批評家というのは、とくに権藤晋は、「すれ違い」さえ意識できていない、ということを印象操作したいがためにである。先入観でしか読まないから、夏目にはどの会話も「すれ違い」としか映らないだろう。したがって、抽出した言葉だけたどると、夏目の指摘が的を得ているようにとれる。いかにも、インチキ政治家がよくやる論理を無視したこじつけ手法に似ている。
自慢するにあたらないが、当のインタビューは、意外と「丁々発止」で進められたのである。そのことも、「あとがき」に記したはずだ。自転車にウーロン茶と午後の紅茶を積んでやってくる作者にとっても、昼下がりの「インタビュー」は、それなりに楽しみな時間であったに違いない。いや、そうした事柄をふくめたひとつひとつが、さらに夏目の評論家としての自意識を過剰に刺激したのかもしれない。となると、「すれ違い」という難くせに対して、「なるほどそのように読めたんですね」と答えるほかにない。
たぶん、夏目は批評家=権藤をあげつらうために、どのページでもいい個々の言葉を並べ立てたいのだろう。それこそ、自論を有利に運ぶための印象操作以外ではあり得ない。最初に「敵」ありき、なのである。仮想敵を想定することで、読者に自論の「正しさ」を植え付けたいのである。それはいうまでもなく巧妙な詐術といっていい。巧妙な詐術こそは、「煽動」の第一要件である。それは、たとえば、本書に「左翼神話崩壊」とか「左翼の退潮」という語句が何度か登場することにも象徴されるだろう。「左翼神話崩壊」を繰り返すことによって扇動し、そして、煽動することで自らも安心できるのかもしれない。ということは、かつて夏目にとって、ただに「左翼の存在」が恐怖の対象であったのだろうか。「左翼の退潮」によって、夏目にはようやく「我が世の春」が到来したことになるのだろうか。
著者の略歴をみると、まさに「全共闘」運動の時代を同じ世代として過ごしていたことがわかる。もしかすると、夏目は、その時代から「全共闘」や「左翼」なるものに反感を抱いていたのかも知れない。あるいは、それらの存在が大きなトラウマの原因であったのかも知れない。石子順造を執拗に批判するのも、石子が「戦後左翼」体験を通してマンガを論じている、と映るからなのだろうか。
夏目ファンといえども、もうそろそろ夏目の印象操作による「煽動」に気づくころだろうか。批判はまだ始まったばかりである。(つづく)
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