
エミール・クストリッツァの最初の長篇映画であるこの作品は、1981年にヴェネチア映画祭で金獅子賞を受賞した。だが、残念ながら日本では上映されなかった。今回、とあるアートギャラリーでこの映画の上映会が英語字幕だが催された。
映画が製作されたのは、80年か81年と思われる。ということは、チトーの死後にユーゴスラビア共産主義者同盟が、新たな「憲法」を成立させた時期でもある。このときクストリッツァ監督は30歳にも達していなかったろう。そして、この作品を含めてクストリッツァの全作品を見渡したとき、第二次大戦後のユーゴスラビアの歴史的背景を無視するわけにはいかないことに気付かされる。
この映画は、ディノという16歳の少年が主人公である。両親と兄と弟と妹の6人が、美しいサラエボの町を見下ろす丘の上に建ち並ぶバラック同然の家屋で暮らす。雨漏りがする屋根の下で、父親は「2000年までに共産主義は実現する」と信じている頑固なマルクス主義者である。テーブルを囲む夕食のあとの家族会議では、小学生の弟の書記役をしたがえて父親は、未来像を語り継ぐ。ディノも兄も、「共産主義の未来」よりも、イタリアのドキュメント映画に映し出されたロックン・ロールが頭から離れない。
ディノの友だちとバンド結成を希望する。地区の中年の党幹部が青少年の自主自立のためにバンド結成を推奨した結果でもある。それは、青少年の共産主義離れを心配する党幹部の「俗流大衆路線」であるだろうか。バンド結成の過程でディノは、幻の「ドリ−・ベル」に恋をする。ところで、ディノの周辺に出没する「不良少年」は、どのような存在なのだろう。なかのひとりは義足をつけているが、ほかの連中も家族はいるのかどうか描かれてはいない。もしかすると、それは第二次大戦の傷跡を意味しているのかと思った。この映画に描かれた時代は、1960年ごろとみられる。とすれば、「不良少年」たちは、戦争終結前に生まれたことになる。「不良少年」=「戦災孤児」とみるのはうがち過ぎだろうか。
また、党幹部の若者につけいろうとする「俗流大衆路線」は、50年代後半の日本共産党の「うたごえ運動」を想起させた。党指導者は、音楽や歌が、人々の心情に訴える道具であることを知悉しているからだ。ユーゴスラビア共産主義者同盟は、ロックン・ロールを推奨したが、同じころ日本共産党は、なんとロシア民謡や日本民謡、そして、センチメンタルな抒情歌ばかりを推奨していた。その差異は大きい。といっても、クストリッツァは、父親に象徴されるチト−による「自主管理社会主義」を軽蔑しているわけでもないのだろう。映画では、チト−の名は登場しないが、それは、まだチト−批判が許されなかったからかも知れない。したがって、マルクス主義や共産主義にたいする揶揄や皮肉は、ひょっとするとチトー主義に向けてのそれであったとみてもいい。
だからといって、クストリッツァが、ただの反共主義者だとはならない。それは次作の「パパは出張中」や「アンダーグラウンド」等々をみれば理解されよう。たぶん、彼は大変な懐疑派なのだ。それはこの映画のあらゆるシーンで的確に描写される。いわば、「諧謔」こそがこの映画のモチーフだろうか。庶民のいいかげんさやでたらめさをふくめたエネルギッシュな生活力を見落とすことはない。生活者の猥雑さを描くことがクストリッツァの真骨頂である。彼は、あるインタビューで「アナーキーこそが人間の原動力だ」と答えたことがあった。この映画に登場する人物すべてが、「いいかげん」であり、「でたらめ」であるといっていい。真面目な父親でさえもである。その底抜けの人間信頼と深い人間不信は、どこでつながるだろう。
現実には「2000年までに共産主義は実現」するどころか、悲惨な内戦が展開された。内戦時、サラエボを見下ろす丘に陣取ったセルビア兵のスナイパーたちは、サラエボの市民たちを標的にした。この映画を撮影しているとき、監督はまさかそのような場面が生起しようとは思いもしなかったろう。クストリッツァは、かつて父親や母親たちではなく、ロックン・ロールに熱をあげる青少年に未来を託したにちがいない。しかし、この映画から十年をへて、彼ら若者たちは手に手に自動小銃を握りしめ、「昨日の友は、今日の敵」とばかりに内戦へと突入した。この映画は、ユーゴスラビアが消滅する20年前の社会を描いた貴重な「記録」「寓話」ともいえるだろう。
![]()
Copyright 2004-2006, Hokutoh Shoboh All Rights Reserved.